朝鮮戦争とサンフランシスコ講和条約

官僚出身議員の登場

新憲法下での初の衆院選後に政権を握った社会党(民主党・国民協同党と連立)であったが、党内の抗争や汚職事件などで僅か一年半で片山内閣・芦田内閣が相次いで倒れ、民主自由党の吉田茂が内閣総理大臣となった。吉田は1949年に解散総選挙に臨み、民自党は単独過半数を獲得した。さらに民主党と連立を組んで安定した政権基盤を整え、第三次吉田内閣が誕生した。
このときの選挙で特筆すべきは高級官僚出身議員が多数登場したことである。後に首相となる池田勇人や佐藤栄作らがそれである。

国際経済への復帰

1948年アメリカは日本に対して「日本経済の安定と復興を目的とする九原則」(経済安定九原則)を要求した。この背景には、冷戦体制が峻烈となる中で拡大しつつある共産圏を危険視したアメリカが、日本を経済的に自立させて共産化の防壁としたい考えがあった。
吉田内閣は米国の要求に応えて均衡予算を組み、1ドル360円の為替レートを与えられて国際経済に復帰した。日本は、補助金廃止や公務員の首切りなどで財政支出が抑えられる中、不況に喘ぎながらも復興への道を歩き出したのだった。

朝鮮特需と再軍備

1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越えて南へ進軍した。朝鮮戦争の勃発である。この戦争で日本は、米軍の補給基地として物資調達を受注して経済的に潤った。この時の経済活性化が、50年代後半以降の高度経済成長へと繋がっていく。

朝鮮戦争は、好景気とともに再軍備ももたらした。在日米軍が朝鮮へ進駐する間の国内警備を強化するためという名目で、マッカーサーより警察予備隊(自衛隊の前身)の創設が命じられた。なお、敗戦の記憶が未だ鮮明な当時は、再軍備についての国内での反対は少なくなかった。

講和条約成立、占領の終結

1951年9月8日、アメリカはサンフランシスコにて日本を含む49カ国によって対日講和条約が調印された。52年4月28日には条約が発効し、アメリカによる日本の占領統治は終わりを告げた。なお、この条約にソ連および中国は参加していない。

講和条約と同時に、米国との間に日米安全保障条約が結ばれた。これにより米軍が日本に駐留し続けることになるわけであるが、冷戦構造を前提に講和条約を引き寄せるために取られた戦略であったと言える。また、この後の日本の趨勢を左右する出来事でもあった。

次は「55年体制の確立

日本政治史 目次

日本政治史 略年表

1945年 終戦
1947年 新憲法施行
1950年 朝鮮戦争
1951年 講和条約締結
1955年 55年体制成立
1956年 日ソ国交回復
国際連合加盟
1960年 安保条約改定
1963年 ケネディ暗殺
1964年 東京オリンピック
新幹線開通
1969年 アポロ月着陸
1970年 大阪万博開催
よど号事件
1971年 ニクソン・ショック
1972年 浅間山荘事件
沖縄本土復帰
日中国交回復
1973年 石油ショック
1976年 ロッキード事件
1978年 第2次石油ショック
1985年 プラザ合意
1988年 リクルート事件
1989年 平成改元
消費税導入
ソ連解体
1990年 湾岸戦争
バブル崩壊
1992年 佐川急便事件
1993年 細川内閣成立
1995年 阪神大震災
地下鉄サリン事件
1997年 山一證券破綻
2001年 米同時多発テロ
2003年 イラク戦争
2008年 リーマン・ショック
2009年 政権交代