高度経済成長と沖縄返還

池田首相の「所得倍増計画」

大紛糾の末に安保改定を終えた岸信介の後に首相に就任した池田勇人は、「10年間で国民所得を二倍にする」という所得倍増政策を発表した。経済成長を前面に掲げることで、安保改定のほとぼりは急速に冷めた。
既に50年代後半から年平均10%を超える経済成長を遂げており、この政策は十分に見通しのある戦略であった。事実、計画から8年後の1968年度に、実質GNPは60年の2.25倍となり、目標は達成された。60年代は日本が一気に大国に駆け上がった高度経済成長期である。

池田勇人は、安保改定を実現するために強行策を取った岸前首相とは打って変わって、低姿勢を貫いた首相であった。また、高度経済成長という国民生活に直接的に利益をもたらしたことにより、国民の支持率は一貫して高かった。
1964年に喉頭ガンを患って入院した池田は、10月に辞意を表明した。折りしも東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開かれるという高度成長の象徴的な出来事の直後であった。

沖縄の本土復帰

池田の後に成立した佐藤内閣は、前内閣から引き続き経済成長を続ける中での長期政権となった。
佐藤内閣の最大の功績の一つが、戦後米国に占領統治されたままであった沖縄の返還、本土復帰である。67年ごろから返還のためアメリカと接触を重ねた佐藤は、69年11月に行われたワシントンでニクソン大統領との会談で72年に沖縄を返還するという共同声明を発表した。返還にあたっての焦点は、返還後も継続して機能する米軍基地に配備されていた核兵器についてであった。当初は核抜きでの返還は困難だと見られていたが、佐藤は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を表明し、最終的に「核抜き、(基地の運用は)本土並み」で返還されることとなった。
しかし、返還の交渉においてアメリカの要請で有事に沖縄への核の持ち込みを事前協議の上で了承するという内容の密約があったということが、佐藤没後に明らかにされ問題となった。

その後、沖縄は1972年5月15日に返還された。なお、佐藤は非核三原則を掲げたことなどが評価され、74年にノーベル平和賞を受賞している。

高度経済成長と佐藤栄作の長期政権

沖縄返還の他に佐藤が行った施策としては、1965年の日韓基本条約の批准、ILO87号条約の批准、日米繊維摩擦の問題解決などが挙げられる。
日韓基本条約によって日本は韓国を朝鮮半島における唯一の国家であることを確認し、国交を正常化した。ILO条約とは、労働者の団結権の保護を定めた条約である。また当時日本の輸出繊維製品に押されていた米国が輸出規制を求めていたが、当時交渉中だった沖縄返還との引き換えに規制が行われたようである。

急速な経済成長と遂げていた60年代後半、日本各地で公害が深刻な社会問題として浮上した。4大公害病とされた「水俣病」「新潟水俣病(阿賀野川水銀中毒)」「イタイイタイ病」「四日市ぜんそく」を始めとする公害問題に対応するため、公害対策基本法が制定され、事業者、国及び地方公共団体の公害防止の責務が定められた。

佐藤政権の後期の71年には、二度のニクソン・ショックが起こった。一つは、米ニクソン大統領が中国を訪問し、冷戦下で対立していたと思われていた米中が和解したことである。その直後、中国は国連での代表権を獲得し、国際社会での存在感を強めていく。二つ目はドルと金との兌換停止により、世界経済の枠組みが大きく変化したことである。日本はそれまで1ドル=360円の為替レートであったが、この年に1ドル=308円に切り上げとなった。

次は「庶民宰相の列島改造

日本政治史 目次

日本政治史 略年表

1945年 終戦
1947年 新憲法施行
1950年 朝鮮戦争
1951年 講和条約締結
1955年 55年体制成立
1956年 日ソ国交回復
国際連合加盟
1960年 安保条約改定
1963年 ケネディ暗殺
1964年 東京オリンピック
新幹線開通
1969年 アポロ月着陸
1970年 大阪万博開催
よど号事件
1971年 ニクソン・ショック
1972年 浅間山荘事件
沖縄本土復帰
日中国交回復
1973年 石油ショック
1976年 ロッキード事件
1978年 第2次石油ショック
1985年 プラザ合意
1988年 リクルート事件
1989年 平成改元
消費税導入
ソ連解体
1990年 湾岸戦争
バブル崩壊
1992年 佐川急便事件
1993年 細川内閣成立
1995年 阪神大震災
地下鉄サリン事件
1997年 山一證券破綻
2001年 米同時多発テロ
2003年 イラク戦争
2008年 リーマン・ショック
2009年 政権交代