55年体制の確立

吉田と鳩山の対立

東西冷戦の激化に伴って、もともと旧大日本帝国の指導者に適用されていた公職追放が共産主義者へ適用されるようになった。同時にその他の者への追放解除が行われた。
1952年に追放解除された自由党元総裁の鳩山は、総裁を譲った吉田首相への批判を強めていた。与党自由党が内部分裂を起こす中で行われた1952年の総選挙は自由党が過半数を守ったものの、党内の不和もあって安定せず一年持たずに再び解散総選挙となった。このとき、鳩山派は自由党から分離して、同名の自由党を結成した。
1953年の総選挙で、吉田茂の与党自由党は大きく議席を減らし過半数を割った。一方で社会党(当時は右派と左派に分裂)と共産党は議席を大きく伸ばした。この選挙の争点は主に「再軍備」にあった。憲法を改正して堂々と再軍備を進めようと主張する鳩山や、憲法はそのままに再軍備する吉田などの保守に対して、革新側の社会党・共産党は再軍備反対を打ち出し、国民の支持を集める結果となった。とはいえ、保守側が多数の議席を保有していることには変わりなかった。

憲法改正を争点として

続く1955年の総選挙では、鳩山一郎が内閣総理大臣となっての総選挙であった。選挙を前に、長期に及んだ吉田内閣に倦んだ世論は「鳩山ブーム」に湧いていた。選挙の結果、鳩山の民主党が第一党となったが議席数は185で、過半数の234には遠く及ばなかった。
一方、1951年に右派と左派に分裂していた社民党は、選挙後に再統一することに決定していたが、選挙後に18議席増やして156とした。
この選挙は憲法改正を争点としており、民主党の鳩山は憲法9条を改正して自衛軍を創設することを掲げ、社会党は平和憲法擁護を唱えていた。結果として護憲論の革新側が全議席の3分の1以上を確保し、憲法改正を阻止した格好となった。

革新勢力の増進を前にして、民主党と自由党は保守勢力として合同することに合意し、1955年11月15日に自由民主党の結成退会が開かれた。初代総裁は鳩山一郎である。同年に左右社会党も合同し、ここに55年体制が築かれた。

国連加盟へ

首相・鳩山の功績はソビエト連邦との国交正常化である。「北方領土」をめぐって交渉は難航したが、最終的には領土問題を棚上げにして1956年10月に日ソ共同宣言が調印された。
同年、国連への加盟も認められた後、鳩山内閣は総辞職した。

安保闘争

鳩山、石橋に継いで内閣総理大臣に就任した岸信介の企図するところは、憲法改正と日米安保条約の改定であった。憲法9条を改正して軍事力を持ち、それによって米国と対等な外交を展開することを目指していたが、社会党が3分の1の議席を確保しているため憲法改正は断念せざるを得なかった。そこで岸が行ったのが安保条約の改定である。
新安保は米軍の配置は行動について、日米間で事前協議できるものとし、日本の内乱に米軍が出動できるという部分を削り、条約の期限を10年としそれ以後はどちらかが1年前に予告することで破棄できることにした。

この安保改定に対して、社会党など革新団体は大規模な反対運動を展開した。この運動には多くの学者、文化人たちも参加し、市民を巻き込み次第に盛り上がっていった。
1960年5月、岸内閣は条約の批准承認を衆議院で強行可決した。怒った市民は国会や首相官邸に詰め掛けデモを行った。連日の激しいデモによって、米アイゼンハワー大統領の訪日は中止されたが、6月19日に参議院での審議のないまま自然承認された。
岸内閣は批准書の交換を終えた後、総辞職する。

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日本政治史 目次

日本政治史 略年表

1945年 終戦
1947年 新憲法施行
1950年 朝鮮戦争
1951年 講和条約締結
1955年 55年体制成立
1956年 日ソ国交回復
国際連合加盟
1960年 安保条約改定
1963年 ケネディ暗殺
1964年 東京オリンピック
新幹線開通
1969年 アポロ月着陸
1970年 大阪万博開催
よど号事件
1971年 ニクソン・ショック
1972年 浅間山荘事件
沖縄本土復帰
日中国交回復
1973年 石油ショック
1976年 ロッキード事件
1978年 第2次石油ショック
1985年 プラザ合意
1988年 リクルート事件
1989年 平成改元
消費税導入
ソ連解体
1990年 湾岸戦争
バブル崩壊
1992年 佐川急便事件
1993年 細川内閣成立
1995年 阪神大震災
地下鉄サリン事件
1997年 山一證券破綻
2001年 米同時多発テロ
2003年 イラク戦争
2008年 リーマン・ショック
2009年 政権交代